塾長受験回想記

塾長自身の受験の思い出、また指導者としての体験などを綴った個人的な回想記です。


塾長石川久人の母校、岡崎高校正門
塾長石川久人の出身校、早稲田大学。大隈重信像と大隈講堂


◆第1章◆ 高校受験(中学時代)

★勉強しなかった中学時代 

 高校受験に関しては、特に受験勉強をしたという記憶がありません。もちろん塾にも行ったことがありません。というか、そもそも近所に学習塾などなく、誰かが塾に通っているなどという話も聞いたことがありませんでした。

 当時愛知の公立高校入試は英数国の3科目しかなくて、しかも今と比べてかなり簡単だったように思います。私自身も3科目ともほぼ満点がとれた記憶があります。(別に自慢ではありません。)

 私の中学時代の成績は、定期テストでは学年(220名ぐらいだったか)で20~30位(定期テストのときもほぼノー勉)であるものの、学校で申し込む中統テストという業者テストではつねに一桁(つまり努力しない実力型)でした。(これも別に自慢ではありません。ただし授業はもちろん集中して真剣に聞いていました。)内申点は3年学年末で39でした。この成績だと現在の岡崎高校では相当厳しい数字です。というか、娘ふたり(長女も次女も岡崎高校)には、「無理じゃん。」と言われました。

★学校群制度

 そんな私が岡崎高校に入れたのは、2分の1の偶然です。私が受験した年は、愛知県の高校入試制度が改革された3年目で、その制度こそが様々な物議を醸したあの「学校群制度」だったのです。学校群制度とは、学校間格差をなくすため、地区の名門校と近隣の適当な学校を2校1セットにして受験させ、どちらに合格となるかは運次第というものです。岡崎市では、岡崎高校と岡崎北高校を組み合わせ学校群とし、受験生はこの学校群を志願し、合格すればどちらかの学校に何らかの操作によって振り分けられるというシステムです。ですから、私の友達の中には、皮肉なことに岡崎高校の校門の前を通って岡崎北高校に通うことになった人もいたのです。

 この制度のもとで、私は運良く(運悪く?)岡崎高校に合格となり、またこのために、後年岡崎高校のPTA会長をやらされる破目(後述)となったのです。

 この改革(改悪?)により、愛知県の名門校の実力は一気に下がりました。(それが目的ですから当然のことですが。)ところが、この反動というべきか、その後の現行制度(複合選抜制度)への改正に伴って、名門校は軒並み復活、むしろ学校群前よりも学校間格差は拡大し、岡崎高校などは全国的にも知られる超一流進学校へと進化したのです。

 私が岡崎高校に入学した時の校長が、実はこの「学校群制度」を県教委実務方トップ(現職でいうと学習教育部長)として強力に推し進め、実現させた故小林一男先生でした。小林先生はご自身の思惑とは大いにかけ離れてしまったこの状況を、いま草葉の陰からどうご覧になっているでしょうか。(これは別に皮肉ではありません、念のため。)

★私が岡崎高校のPTA会長になったわけ(余談)

 岡崎高校のPTAは少し特殊で、学年から2人選出する役員については、新入生の保護者(父親)から岡崎高校OBを探し出してお願いしています。(どうやって探すのかは秘密)そんなにたくさんOBがいるわけもありませんから(せいぜい20人くらい、母親も入れればもっと多いが、姓が変わっているので探せない)、毎年役員探しは大変です。いつからかはわかりませんが、それが伝統で、こんな高校は岡崎高校ぐらいしかないそうです。(もちろんOB以外が選ばれる例外の年も稀にあります。)選ばれると、子供が在学する3年間はずっと役員で、最後の年は2人のうちどちらかが会長、もう一人が副会長となる(ふつう先輩OBが会長になります)わけです。

 私の場合、1人はもう決まっていて(その人は後輩)、2人目が決まらないまま入学式もだいぶ過ぎてから、次期PTA会長から依頼の電話があったのでした。岡崎高校のPTAなんてとんでもないというのが率直な気持ちで、最初は丁重にお断りしましたが、次に教頭先生からたってのお願いの電話があって、やれない理由を探すこともできず、「これはもう断れない」と腹を括って承諾しました。実際新年度のPTA総会も迫っており、切羽詰まった状況であったことは、後から知りました。

 たまたま学校群制度のもとで岡崎高校に振り分けられ、娘も運よく岡崎高校に合格できたため、何の因果か母校のPTA会長を務めることになったわけです。岡崎高校の生徒の保護者には私などよりPTA会長に相応しい人物が数多くいることはもちろん承知のうえですが、引き受けた以上全身全霊を傾けて職責を全うしたことはいうまでもありません。

 私が会長を務めた年は、役員6人は全員OBでした。さらに教頭先生、総務担当(PTAも担当)の先生、進路指導部長の先生も岡崎高校OB(生徒指導部長の先生は私と同学年で岡崎北高校OBでした)で、PTA役員会を開くとOBだらけという状況でした。こんな状態では、OB以外の人が会長になるのはやはり無理があるのかなあと思ったのも事実です。

 

◆第2章◆ 大学受験(高校時代)

★目指すは名古屋大学

 岡崎高校に入学した生徒の大半がまず目指す大学は、地元の旧帝大である名古屋大学です。岡高に入ったんだからなんとか名大レベルの大学に進学したいというのが、当時の岡高生の偽らざる望みでした。しかし現実はそんなに甘いものではありません。そのころの岡高の進学実績は学校群制度導入のせいでかつてない低レベルに沈んでおり、東大・京大合わせて10名ちょっと、名大でも30数名がやっとという時代です。上位10~15%ぐらいにはいないと到底名大などは無理というのが実情でした。(学年の半分ぐらいにいれば、十分名大を狙える今の岡高とは雲泥の差があります。)ご多分に漏れず、私も入学した当初から名古屋大学(志望学部ははじめ文学部のちに法学部)を志望していましたが、現実の厳しさを思い知らされることになります。

㊟その後岡高の進学実績は徐々に上がっていき、学校群時代終盤はもとの岡高の実績に近いところまで回復します。

★現実を知り、奮起する

 入学してすぐにあった、中学の総復習のような実力テストで私は学年130番(定員約400名)ぐらいでした。改めて自分の地力のなさを知り、唖然、愕然、茫然とした覚えがあります。次に最初の校内実力テストでは、自分では相当頑張ったつもりで、自信もあったのですが、学年80番程度でした。とても名大を志望できるような順位ではありません。私はこのとき、高校は中学とは違うんだ、ガリガリ必死に勉強しなければ絶対にいい成績は取れないんだ、ということを深く胸に刻んだのでした。

 この後私はまず授業の予習をしっかりするようにしました。高校の授業は中学とは比べようにならないくらい難しいので、ちゃんと準備していかないと十分なパフォーマンスが得られないからです。それから、中学時代にはほとんどしたことのなかった「テスト勉強」というものを必死でやるようになります。定期考査・実力テストのときは、テスト前日は徹夜が当たり前でした。後は本をたくさん読みました。現国の教科書にでてくるような作家や評論家(鴎外・漱石・芥川はもちろん大江健三郎、安倍公房、大岡昇平、井伏鱒二、魯迅、モーム,小林秀雄などなど)の本を片端から読み漁っていきます。これが国語の実力を引き上げる原動力になったと思います。(もともと国語は得意科目でしたが、広汎な読書のおかげで超得意科目となり、テストでの強力な得点源にもなりました。)

 さてこの甲斐あってか、成績は上がりました。通知表の評定平均は4.7を超え、実力テスト・模試などでの校内順位は30番以内に定着(最高で5番でした)し、名大合格へむけた確固たる地歩を築いたのでした。

★早稲田の赤本にビビる

 高3になり、名大合格圏を堅持した私は、第一志望を名大法学部とし、第二志望に早稲田の法、第三志望に早稲田の政経・政治を受験することに決めました。早稲田の「バンカラ」「在野」のイメージがとても気に入っていたからです。しかし、早稲田ではとても「すべり止め」にはなりません。この選択がのちに思わぬ結果を招くこととなりました。

 早稲田の受験科目は英語・国語・世界史(選択科目)です。秋になって赤本(過去問)を買ってやってみたところ、まったく歯が立たず、大きな衝撃を受けました。国語は通用するものの、英語は非常に難しく、世界史に至っては教科書に載ってないことのオンパレードで半分も解けない有り様でした。これでは落ちると思いました。今思えば、第一志望ではないわけですから別に落ちてもよかったのですが、そのときは受ける以上は何としてでも受かりたいと強く思ってしまったのです。

 そこで私は早速英語・世界史の強化に取り組みました。とくに世界史は、「精説世界史」という500ページ以上もある参考書を買い込み、欄外や注釈のところまで、徹底的に読み込み覚えました。(実際にそういうところから出題されているのです。)この結果、校内実力テストの世界史はダントツの1位(そのころは科目別に優秀者の氏名が貼り出された)、2位に20点(100点満点)以上の差をつけるまでになりました。けれども、そこまでやらなくてもよかったのです。明らかに勉強のバランスを崩し、誤った方向に突っ走ってしまったのです。このため、当然数学や化学の勉強はおろそかになってしまいました。名大は大丈夫という過度な自信があったことも確かです。

★早稲田合格、名大不合格 

 試験初日の冒頭(早稲田政経・英語)、緊張のあまり頭が真っ白になり、しばらく英文が目に入ってこないという恐怖を味わったものの、すぐに立ち直り、快調に早稲田の試験を乗り切りました。特に早稲田の現代文は難問が出ることで有名で、その年はただでさえ難解な小林秀雄の評論が、本来の順番を前後して出題されるという離れ業のような問題もあったのですが、ソツなくこなすことができました。自己採点(試験終了後、大手予備校が解答速報を配っていた)では、政経8割弱、法8割超ぐらいだったと思います。当時早稲田の合否ボーダーは7割弱で大丈夫と言われていましたから、余裕の上位合格だったと思います。政経合格の電話(今のようにネットがあるわけではないので、地方の受験生は受験時に合否の結果を代わりに見て報告してくれる学生バイトを頼んでおく)があったときは、非常に嬉しくて、部屋中飛び回って喜んだことを鮮明に覚えています。

 これに対して、名大のときは全般に低調で、得意の現代文もあまり冴えず、化学も不調、日本史もダメ、とりわけ決定的だったのは数学で、チャートの例題に出てくるような 易しい問題をまるまる1題、40点分(200点満点)落としたことです。これでは、到底受かるはずもありません。合格発表の帰り道、あの八事の下り坂で、道の向こう側にいたこれから発表を見に行く同じクラスの女子にむかって、「落ちたー。早稲田に行くー。」と大声で叫んでいたような記憶がかすかに残っています。(ちなみにこの女の子も落ちていたと思います。)

 私の大学受験は失敗でした。第一志望に落ちたわけですから。このリベンジを娘が見事に果たしてくれ、現役で名大文学部に合格しました。このとき(娘と妻と私の3人でネットで見ました)は自分が合格した時よりは遥かに嬉しくて、3人で肩をたたき抱き合い躍り上がって喜びあいました。しかし、私の受験は失敗ではあったけれど、娘が自分の落ちた名大に入ったくれたことは心の底から嬉しいけれど、私自身は早稲田に入ってよかったと昔も今もずっとそう思っています。

★大学受験を通じて得たもの

 高校3年間の受験生活は一言でいえば、大変つらい苦行・修行のごときものでした。名大に落ちたとき、浪人して1ランク上の大学を目指すという選択肢もあった(実際進路指導の先生からは、一浪して京大を目指すよう勧められました)わけですが、とてももう1年受験勉強をする気持ちにはなれませんでした。今でも当時の受験の重圧を思い出すと、胸苦しいような気分になりますし、最近はようやく解放されましたが、少し前までは試験勉強が全然できていなくて、大学入試に次々と落ちていき茫然自失するという夢をよく見ました。

 この大学受験という厳しいプレッシャーに耐え、最後まで自分を支えたものは何だったかということを考えるとき、やはりそれは目標を達成しようとする強い意志以外のなにものでもなかったであろうと思います。ごく当たり前のことですが、自分の意地とプライドを賭けて、逃げずに真正面から受験に取り組んでいったことが、最後に早稲田合格につながったのだと思います。

  中学、高校、大学いずれの受験においても、最後にものをいうのは、「絶対この学校に受かるんだ」という受験生自身の強い気持ちです。この思い窮めた堅牢な意志だけがプレッシャーをはねのけ、志望校合格を招き寄せます。このことを、私は自らの受験で原体験として学びました。この原体験こそが、その後の私の受験指導の原点になっているのではないかと思います。

 

◆第3章◆ 家庭教師(大学時代)

★中学受験生の家庭教師となる

 大学に入り、受験とは無関係の日々を送っていた私ですが、ひょんなことから頼まれて家庭教師をすることになりました。その生徒が中学受験をする小6の男の子だったのです。当時から、東京では教育熱心な富裕層では中学受験が当たり前、熾烈な競争を勝ち抜かなければいけない少数激戦の厳しい世界でした。しかし、私は田舎育ちで中学受験に関する知識など皆無で、小学生の家庭教師など楽勝ぐらいの軽い気持ちで引き受けたのでした。

 ところが、なんと算数の問題の難しいこと、難しいこと、毎回頭を抱える破目に陥ってしまったのです。中学受験の算数は小学校で教える算数とはけた違いに難しく、独特のメソッドを身に付けていないと到底解けません。経験のない一般の大学生(いかに一流大学といえども)の手に負えるものではないのです。そのため、教えるというよりも生徒と2人で話し合いながら、ともに問題解決をめざす風な感じでやっていたと思います。生徒にしてみれば、ずいぶん頼りない先生だったことでしょう。あるとき、宿題の流水算(船の速さと流水の速さが複合する非常に難しい速さの問題のひとつ。独特の解法があり、方程式を使うととても複雑になってしまう。途中船が故障して流されてしまったりすると大変なことになる。)の問題が難しいから解いて欲しいといわれ、方程式などをこねくり回してやっとのことで解いて渡したわけですが、次回来たときに、生徒から「先生全然ちがってたよ。しっかりしてよ。」と言われ、大恥をかいたこともありました。

 それではクビになったかというと、そんなことは全くなく、生徒は非常によくなついてくれ(毎回必ずプロレスをしてさぼっていました=お母さん、申訳ありません)、なぜかお母さんからも気に入られていました。この生徒は結局第一志望には受からず、第二志望の中学に行くことになったのですが、それでもとても感謝され(先生のおかげですみたいなことをいわれ、恐懼した覚えがあります)、合格のお祝いにも招かれました。

 この家庭教師を通じて、私は中学受験の世界を垣間見たわけですが、のちに自分が中学受験のプロになるなどとは、このときはもちろん夢にも思ってもいませんでした。

 

to be continued   随時執筆していく予定です。